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母校 59年の歴史閉じる
2010/03/04(Thu)
CCF20100303_00000.jpg   母校 59年の歴史閉じる     CCF20100303_00001.jpg
写真は、私が通学した北海道立浦幌高等学校旧校舎(1957年完成~1984年新校舎へ)

高校の閉校式 惜別の会に出席しました。 
私が通った北海道十勝の浦幌高等学校が3月末で59年間の歴史を閉じることになりました。
2月13日、閉校式と惜別の会が開かれ、あわただしく出席しました。
  
   万緑萌ゆる大十勝          向学の丘百花満ち       遠くとも敢えて修めん
        生気新たに漲れば         薫風和あり東山          若人われら うらほろ
     
校歌を合唱しながら、母校がなくなる寂しさと悔しさ、そして感謝の気持ちを胸に刻みました。
 学生を運んだ朝七時着の汽車はいつまで走るだろうか・・・・。   
                                 ふるさと 北の大地の過疎化の流れは早い。 
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連載 私の雑記帳(34) 20年ぶりの全員当選
2008/07/31(Thu)
 2007年の選挙戦は、44の定数に55人が立候補する多数大激戦となりました。
前回区議選の最下位当選者の得票は2,200票余りでしたが、今回は前回より立候補者が少なく、なおかつ江東区の人口増で有権者が3万4千人ほど増えたので「当選には3000票が必要」というのが、各陣営の認識となっていました。
 私が初当選したときでも2,600票余りの得票でしたから、これまでの2倍、3倍の活動をしなければなりません。
 2006年の4月19日から、西大島の駅頭で早朝宣伝を続け、選挙本番でも早朝5時から8時半まで、夜は7時半から10時まで、妻や筋金入りの党員の人たちと立ち続けました。
 正保候補が“重大事態”のニュースを聞きつけて、「居ても立ってもいられない」と、地元の方々が候補者カーや伴走車に駆け乗って、マイクを握って私への支持を熱く訴えてくれました。街の雰囲気が一変しました。
 党支部と後援会の皆さんが昼夜をわかたず大車輪で奮闘いただきました。
最終日、「私は正保の家内です。なんとしても勝たせてください」と、妻の必死の声が天に響きました。  “万歳、万歳” 3,475票を獲得し、13位の高位で当選することができました。たくさんのドラマが生まれました。
 日本共産党は、8名全員当選を果たしました。江東区での全員当選は20年ぶりのことです。
 私は、区民の期待に応え、くらし応援の区政実現に全力でがんばろうと決意を新たにしました。
万歳 2007.4
 
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連載 私の雑記帳(33) 早朝の駅頭宣伝
2008/06/04(Wed)
 2003年4月の区議選で失敗した私は、ホテルの洗い場や清掃、小包郵便物の仕分けなど夜勤の仕事をしながら昼間は大学へ通い、党活動もするという道を選びました。
 体重が14㎏減りましたが、私自身『どこからこんなエネルギーが出てくるのだろう』と不思議なくらい寝る間も惜しんでの精力的な日々が続きました。
 そして2007年の2月、区議選の公認候補として活動することになりました。それまでの3年間を振り返ると、今後はどんなことでもやれば出来ると思いました。
 私は、新しく活動地域となった西大島の駅頭に毎朝立つことを決意しました。雨が降っても台風が来ても仲間の人たちと立ち続けました。
 『こんなに続けた人は見たことが無い』 、『頭が下がるよ』の声をいただきました。当初5~60枚だったミニビラがいまは300人近い人が受け取ってくれて読者になっています。
 毎日参加してくれていた野口菊子さんは、趣味の短歌でこう詠みました。
    日課とし 生き甲斐にして 早朝の
     駅頭に立ち ビラ配りいる
      「頑張るね」「風邪をひくなの」声多し 見知らぬ人が 友となる日々
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連載 私の雑記帳(32) 医者嫌い
2008/05/20(Tue)
 区議選に失敗し、小包郵便局で仕事をしている時のことでした。その日は、郵便車で到着したパレット(2~300キログラムの荷物を載せた専用台車)を引き込む仕事でした。パレットから荷物が落下し、左足の親指を骨折。労災が認められました。
 怪我をしたときに、怪我の記憶がよみがえってくるものなのでしょうか。〇歳の時、はいはいしていてお湯の入った鉄瓶をひっくり返し、左足の甲に大やけどを負いました。当然、記憶はありません。今でもケロイドが消えません。
 3歳の夏、近所の友達と遊んでいたとき、道路と畑の間にある排水堀をみんなは簡単に飛び越えていきました。私もまねをしてジャンプしましたが排水堀に落下。鎌で刈った葦が右目の下に突き刺さりました。
 母は刺さった葦を抜き取ったら4センチくらいの長さがあり「もうだめだろうと思った」と、後に私に話してくれました。幸い、急所を外れていたので助かりましたが、十勝ワインで有名な池田町の病院へ通院しました。
 病院では、診察が自分の番に近付いてくると、外へ逃げ出して母が捕まえて診察台に乗せるのにたいそう苦労したそうです。私の医者嫌いはこのときからだと思います。
 中学2年の秋、野球の公式戦でランナーにタッチしたとき、左手親指を骨折。子どもの頃から今日までよく怪我をしました。
 病気や怪我をしたときに、人のやさしさというものが良くわかるものです。     つづく
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連載 私の雑記帳(31) 通信制の大学へ
2008/05/18(Sun)
 人が勉強しようとする時期はさまざまであり、年齢にかかわりはありません。この生涯学習の夢をそのまま実現してくれるのが「放送大学」です。この大学は、テレビとラジオを視聴しながら、教材を使って自宅で自分の時間に合わせて学習できる正規の大学です。
 私は、2001年に教養学部に入学し、2005年に卒業(学位取得)しました。学生は年齢や経験もさまざまで、社会のあらゆる階層の人が学んでいるという感じです。
 現職議員のときの2年間は、自宅に帰ってから録画したビデオでコツコツと勉強していました。後半の2年間は大変でした。卒業に必要な124単位のうち、最低20単位は教室で授業を受けなければなりません。ホテルの皿洗いや郵便局の夜勤、清掃の仕事を終え、そのまま文京区にある筑波大学内のキャンパスに飛び込みました。
 疲れすぎて、2階の教室へ手すりにつかまってやっとたどり着いたことや、試験中に睡魔に襲われて存分に力が発揮できなかったことなど、色々思い出されます。しかし、途中で投げ出したくない、卒業できるまでがんばりたいという思いが私を駆り立てました。
 この経験を今後の活動に生かしてゆきたいと思います。                 つづく
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