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第27回例会山行 裏磐梯・野鳥の森
2007/08/31(Fri)
 8月25日(土)に福島県耶麻郡北塩原村の八森山・野鳥の森に行ってきました。抜け落ちてしまいそうな青空で「今日もまた暑いのか」と、冷房の効いたバスから降りるのがためらわれるようないい天気です。
 しかし、予想は大はずれで、すがすがしい気持ちの良い風と明るい木洩れ日は思わず足取りも軽く、緩やかな上り道におしゃべりの花が咲きました。展望台からの裏磐梯のパノラマに歓声を上げ、途中の木陰で昼食。道端の花を愛でながらゆっくりと下山しました。
 登山口から10分ほどの温泉保養施設「ラピスパ裏磐梯」で汗を流し、蔵のまち喜多方に進路をとりました。喜多方はラーメンの街でもあります。蔵造りの「蔵前」でチャーシュー麺をいただき、会津若松の「柏や」で薄皮饅頭(試食)のデザートを賞味し、カラオケボックスに変身したバスに揺られて帰路につきました。
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連載 私の雑記帳 (14)長男誕生
2007/08/31(Fri)
 高尾山か御岳山、いや、秋川渓谷へでも行くのだろうか。ゴールデンウイークの中央線の車内は、リュックに登山靴のハイカーや家族連れでいっぱいです。
 5月4日、約束通り3ヶ月以内の再転勤で東京の国立支店に着任しました。
 銀行は、大阪に単身で赴任しながらも人事命令の再考を求めていた私に、銀行と交わした覚書を交渉しないという条件で「3ヶ月以内に再転勤させる」という事実上の人事命令の撤回を行いました。
 品川区大崎の自宅アパートから秋葉原で中央線に乗り換え、国立駅まで往復3時間の通勤となりましたが、私はもちろん、妊娠5カ月の妻も大変喜びしました。8月には長男・健一郎が誕生し、3人家族になりました。
 女性が結婚し、出産・子育てしながら働き続けるということは、本当に大変なことです。職場の方々の理解と協力がどうしても必要です。
 そして、さらに大変なのが保育園探しです。公立保育園にはゼロ歳児の空きがなくて、無認可保育園にやっと入ることができました。職場に復帰した妻は、育児休暇中にたまった仕事に追われましたが「早く帰ってあげなさい」という職場の方々の温かい思いやりがありました。
 私は外回りの仕事で過酷な残業が続きました。       つづく
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連載 私の雑記帳 (13)3ヶ月以内に再転勤
2007/08/26(Sun)
 1983年1月20日、私は蒲田支店から大阪西支店へ転勤を命ぜられました。妻は妊娠3ヶ月。当時は「寿退社が当たり前」の銀行の労務政策の中で、妻は大和銀行の正社員として働き続け、実家の生活費も応援していました。
 支店長は、「業務命令に逆らうのか」「奥さんを説得して連れて行くのが男の役割だ」などと高圧的でした。
 いったん出された業務命令は変更できないのだろうか…。
 悩んだ末、巨大銀行を相手に「配転命令の再考」を求めることにしました。たぶん、三菱銀行で前代未聞のことだったに違いありません。
 従業員組合の委員長は、「自分の体験からも君の真意を銀行に伝えます」と対応されました。人事部へも弁護士とともに要請に行きました。
 蒲田支店で1週間の引き継ぎをしたあと、いったん単身赴任しましたが着任後3日目で有給休暇を取って東京に戻り、銀行との交渉にのぞみました。
 日本共産党の上田耕一郎参議院議員事務所や正森成二衆議院議員(大蔵委員)や統一労組懇にも尽力をいただきました。
 2月20日、銀行から「3ヶ月以内に再転勤させる」と、弁護士を通じて回答がありました。
 日本共産党が一サラリーマンの訴えにかかわらず、すぐに解決にあたってくれた行動力に感激しました。      つづく
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連載 私の雑記帳 (12)単身で天下の台所へ
2007/08/15(Wed)
 1983年2月、人事部長あてに「大阪西支店への転勤を承諾していない」ことを書面で伝え、一旦、単身で赴任することにしました。
 ボストンバックひとつで、東大阪に在る独身寮に入寮しました。寮から西区阿波座にある支店まで電車で約1時間かかります。
 大阪西支店での私の配属は外国為替係で、主に輸出書類の審査の仕事でした。蒲田支店で外為の経験があったので安心しました。
 着任した日の夕方、私の紹介とあいさつの機会がありました。1階ロビーにはすでに百名ぐらいの従業員が集まっていました。
 私は、「いったん着任したが、人事の再考を求めている」ことを話しました。みんなキョトンとして私の話を聞いていました。
 その日の夜、外国為替係が私の歓迎の場を梅田の料亭で開いてくれました。私は複雑な気持ちで宴席にいました。
 当時、支店長は桧原さんというパリ支店から来られた方で、フランス語には”ヒ”という発音がなくて「ヘバラ」とよばれていたことなど、土産話を愉快に話されました。桧原支店長は、「いろいろなことがあっても辞めるなよ!」と激励してくれました。
 支店では、私に対する風当たりがつよく、ある課長などは、「お前のような奴がおるから業績あがらへんのや」と露骨に嫌がらせを言って来ました。
 大阪は、「天下の台所」と言われるだけあって食べ物はホンマ美味い。しかし、関西弁はなかなか好きになれませんでした。      つづく
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連載 私の雑記帳 (11) 大阪への転勤命令
2007/08/11(Sat)
 1983年1月、私は蒲田支店から大阪西支店への転勤を命ぜられました。
 結婚して1年余り、妻は結婚後も大和銀行に働き続けていました。そして、妊娠3ヶ月の大事な時期でもありました。私が大阪に転任すれば、単身赴任か妻が職場を退職しなければならないという選択を迫られることになったのです。
 以前から、身上調書や人事面接などで「共働きなので、転勤するなら東京地域にしてほしい」と希望してきたので、勇気を振りしぼって銀行に再考を求めました。
 銀行は「業務命令は絶対的なもの」、「ほかの人はいろんな事情があっても従っている」「共働きは奥さんの問題。説得して連れて行くのが男の役割だ」などという返事でした。
 私は転勤そのものを拒否しているわけではありませんでした。夫婦別居がわかっていながら、大阪への転勤命令を言い渡すことがおかしいと考えたのです。人事部長あてに、書面で「承諾していない」ことを伝えて一旦、単身で大阪へ赴任することにしました。
 私が25歳のときです。          つづく
蒲田支店外国為替課

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連載 私の雑記帳 (10)結婚
2007/08/02(Thu)
 私は21歳で日本共産党へ入党しました。
 そのころ、都市銀行や信託銀行などに勤務する青年たちが交流・親睦をはかる「金融青年サマーキャンプ」が自主的に行われていました。富士五湖の一つ、西湖に大型バス10台、400名が集まりました。
 私と彼女は、この1泊2日のキャンプの実行委員として知り合ったのが最初でした。いつしか、頑張り屋の彼女にひかれて行きました。
 私の出身の北海道では、愛情を告白するのは女性のほうからです。男性はたとえ大好きでもそれを待っているのが普通の習慣でした。でもそんなことは言っていられません。ここ一番汗をふきふきプロポーズしました。
 彼女は、にっこり笑って「OK」の返事をくれました。「やったー」私は有頂天になって独身寮に小走りで帰りました。
 1981年10月10日、私の故郷北海道で結婚式を挙げました。
 青年が中心になって行う会費制の結婚披露宴を行っているのは、当時は全国的にも北海道だけのようでした。高校時代の野球部の友人たちが心のこもった手作りの披露宴をしてくれて、感激しました。
 品川区大崎の百反坂に2Kのアパートを借りて、「結婚しても働き続けたい」という妻の思いを尊重し、共働きの新婚生活が始まりました。              つづく
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3700発の花火が夜空へ 8月1日
2007/08/02(Thu)
1日(水)、荒川・砂町水辺公園で江東花火大会が開催されました。
26回目を迎えた同花火大会は、下町の夏の風物詩として地域住民のみなさんの手で育まれてきました。今年は、7.5センチ玉が1690発、9センチ玉が1380発、12センチ玉が630発の合計3700発のスターマインが夜空を彩りました。なかでも、「ハートに矢」の形をした花火には、若い人たちから「オーツ」という歓声が沸き起こりました。
 新葛西橋と地下鉄東西線鉄橋との間の荒川には、70隻をこえる屋形船や納涼船がところ狭しと並び、周辺の民家や会社の屋上は「ビアガーデン」に様変わりするなど、10万人以上の区民が真夏の夜のひとときを楽しみました。
 私は招待席には座らず、町会役員として昨年に続き警備を担当しました。20070802075753.jpg

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